風水について考えるブログです.

現代の風水は,非常に複雑な容貌を持っています.
もちろん,古代風水も単純ではありませんが,それなりに筋が通っているように思えます.
中華圏で発生した風水は, 風水であるだけに周囲の地理的環境の影響を受け,変化したようです.
さらに,世俗的な欲求から,多様な要素が付け加わっているようです.

これらを整理してみようという試みです.
 

2010年5月25日火曜日

風水と自然科学

 
 「風水」は,自然現象の記録とその体系化ではありませんので,「自然科学」の範疇に,入ることはありません.

 風水には,「学」と「術」があるようだと前に書きましたけど,上記のような定義法でいけば,「風水学」は古典を論拠として必要とするのに対し,「風水術」はそういうものは必要ありません.なにを根拠にするのかというと「連想」というのが「当たり」のようです.

 一応(この「一応」というのが重要な点です),「学」も「術」も「自然観察に基づく」と主張しますが,重視はしていないようです.

 「学」は「古典に基づ」きますので,論理の展開には自ずから規制がありますが,「術」は「連想に基づ」きますので,論理展開には,かなりの自由度があります.論理に明白なギャップがあっても,あまり気にしません.
 たとえば,「黄色や金色のグッズは金運を高める」などという主張は,なんの根拠も示されるわけではなく,単に色による「連想」としか考えられませんね.そもそも,古典風水には「金運UP」などという概念はどこにもない.

 連想は,そもそも,個人々々の「脳」の中にしかありません.
 このため,「風水術」は「A氏の風水術」,「B氏の風水術」,…,といった様相を示し,互いに矛盾することもしばしばです.
 現代風水術は,「風水術を用いる」というよりも,特定の「風水先生を信じる」ことという様相を示しています.

 なぜ,こうなってしまったのかは,おいおい,考察してみることにしましょう.
 

2010年5月16日日曜日

 
 「学」と「術」で,「風水の基本…不可能」と書いてしまいました.
 しかし,「底流」というか「根本を流れる思想」というのはあります.それは,「気の流れ」です.

 「気」とはなにか,と,いうのを説明するもの難しいですが,これは「学」の本でも,「術」の本でも,一通りの説明がありますので,参照してみてください.ただし,理解できるかどうかは,保証の限りではありません.

 私なりのいい方をすれば,「それは,あらゆるものを動かしているエネルギー」と,でもいうものでしょうか.「人」の場合が典型で,「人の生命は気が凝集したもの.気が凝集すれば生き,拡散すれば死ぬ.」(荘子)というわけですね.

 これは,大地にもアナロジーとして用いられ,大地にも生気が流れていると考えます.

 このあたりまでは,東洋人であれば,何となく理解している世界ですね.
 しかし,これが「術」の世界に入ると,多少混乱を生じます.
 一般的には,大地の生気が流れるルート「龍脈」には,生気が濃密にわだかまる場所「龍穴」があり,この上に,墓・家・町・国をつくると,繁栄するということになっています.

 しかし,いろいろ調べると,「龍脈」に,そのようなものをつくるのはとんでもないという考えもあります.
 なぜかというと,「龍脈」は強いエネルギーの流れですから,その上につくった墓では,死者は安らぐことはできないですし,家や町をつくれば,その強いエネルギーに耐えられるような強い精神・肉体を持っていない者には「災い」でしかないといいます.

 どちらが正しい?

 たぶん,どちらも正しいのでしょう.
 適当な水量を持った川は大地に潤いを与え,豊かな農作物を供給してくれます.しかし,天候の変化により急激に水量を増した河川は,災いでしかありません.
 単に「龍脈」を読み,「龍穴」を探り当てただけでは,幸運が訪れるとは言い切れないのでしょう.
 

2010年5月15日土曜日

「学」と「術」

 
 「風水の基本は…」という話から始められればいいのですが,それは不可能なようで.
 あまりに雑多なものが付け加わっていて,なにが基本なのかがわからない.
 たぶん,広大な中華圏のさまざまな土地の土俗宗教,言い伝え,などが渾然一体となって構成されているのが風水なんでしょうけどね.

 三浦國雄「風水講義」(文藝春秋)には,「ごく単純化して言えば,前者は「学」で後者は「術」というまったく質の異なるもの」があるとしています.
 つまり,風水には「学」と「術」があるということでしょうか.

   


 「学」の方は古代の中華圏(台湾や朝鮮を含む)において,生活技術として使われた風水を,民俗学的な立場で明らかにしていこうというもの.これは,「なぜ中華圏には『現代自然科学』が発生しなかったか」という科学史上の問題でもあります.
 もう一方の「術」は,(現代も含めた)社会におけるさまざまな問題を解決するための,いわば応用ともいうべき風水です.あらゆるところに手を出そうとしますから,あらゆるものが含まれてきます.風水が複雑なのは,広大な中華圏における多様な地理環境のためだけではなく,庶民の生活に密着した雑多な問題を解決しようという試みのせいでもあるわけです.

 出典は忘れましたが,「学」の方からみると,「術」は(とくに現代風水は)「ちまちま風水」といういい方もあるようです.
 風水を単純化して整理しようとする「学」に対して,日々,雑多なものを付け加えようとする「術」に対する,「イライラ感」が現れているような言葉ですね.

 私の感覚をいえば,「学と術」は,「表と裏」あるいは「陽と陰」のような関係にあるものではなく,その境目はごく曖昧な…もののような気がします.
 思わず,「陽と陰」といってしまいましたが,これが正しいかもしれない.もちろん,「太極図」における「陰と陽」の解釈ですね.
 二つ分かれているように見えますが,陰の中に陽があり,陽の中に陰がある.二つは絡まり,これを永遠に繰り返す….
 

2010年5月14日金曜日

はじめに

 「風水」について考えてみようと思う.
 現代の風水は,非常に複雑な容貌を持っている.もちろん,古代風水も単純ではないが,それなりに筋が通っているように見える.中華圏で発生した風水は,風水であるだけに周囲の地理的環境の影響を受け変化したように見える.
 さらに,世俗的な欲求から,多様な要素が付け加わっている.

 日本では,沖縄の風水が,より原形をとどめているようであるが,日本本土の現代風水は,土俗宗教を取り込み,また風水先生の個人的要求によって,ほぼ原形をとどめていない.
 むしろ,そのメタ風水,パラ風水が幅をきかせているために,本来の風水の研究は最悪の状況を迎えたようだ.

 しかし,最近では,メタ風水,パラ風水の方は,以前より勢力を失っているので,私のような初心者が口を出したところで,風水先生の天罰が当たるようなこともなくなっただろうと思う.
 しかし,ものがものなので,危なくなったら,ここはすぐに閉鎖するつもりでいる.