風水について考えるブログです.

現代の風水は,非常に複雑な容貌を持っています.
もちろん,古代風水も単純ではありませんが,それなりに筋が通っているように思えます.
中華圏で発生した風水は, 風水であるだけに周囲の地理的環境の影響を受け,変化したようです.
さらに,世俗的な欲求から,多様な要素が付け加わっているようです.

これらを整理してみようという試みです.
 

2010年6月28日月曜日

「地形派」vs.「方位派」

 
 前回,「環境の違うところでは「風水」が違い,「風水論」も異なります」と,書きました.少し補足します.

 いわゆる“風水本”の解説でよくあるのが,「地形派」vs.「方位派」というわけ方.こういうわけ方は,「陽=善」,「陰=悪」みたいな受け取りかたとおなじで,そもそも,東洋的でない.「善」と「悪」に分けるのは人間の都合,それも,かなり幼稚な都合ですね.「アンパンマン=正義」,「ばいきんまん=悪」みたいな.

 図は,村山知順「朝鮮の風水」に示された有名な図で,いわゆる「せいきモデル」(漢字で示さないのは,検索サイトを通じて“妙な”サイトとリンクされるのを防ぐためです)というものです.
 風水の解説本には,必ずといっていいほど載っています.




 まず,こういう地形が実際に存在するか,どうか,かなり疑問です.
 モデルだから,まったく同じものはないであろうことはわかりますが,Google earthなんてものが,存在するにもかかわらず,これと類似した,これぞ風水地形という地形が示されたことないというのも“妙な”話ですよね.
 これは,「桃源郷伝説」に関係してるんだと思います.沢の選択を一つ間違えても,そこにはたどり着けない,という.
 これについては,また別の機会に,話を続けましょう.

 それはさておき,こういう地形が実際に存在するかどうかは別として,あるという仮定でいきます.
 子供にでもわかることは,こういう地形は,山間部にしかありえないということです.
 山間部だと,あり得るのかという話は,また別の機会に.
 地質によっては,複雑な沢地形をつくり出すことも,考えられますので,希にはあるかもしれない.

 さて,中国でも,南部の山間部,モンスーン地域では,こういう風水もあり得るかもしれません.
 しかし,中国中央部の黄土地帯=大平原ではどうでしょう.また,北部の岩石砂漠ではどうでしょう.このような,風水地形論は意味がないですね.
 頼るものは,方位しかありません.したがって,方位に頼るしかない.

 ただ,目印もろくにないような,大平原あるいは砂漠で,「風水」が必要かどうかは疑問ですが.

 でも,風水にとって,「地形が重要か,方位が重要か」という議論は,その地域次第であって,あまり重要な意味はないということはわかりますよね.

 モデル図について,注意しておかなければならないことがもうひとつ.あれは,引用元が「朝鮮の風水」であって,“中国の風水”ではないこと.
 したがって,これをもって,風水全般を説明して良いのだろうか,という疑問が先ずあるはずですね.
 

2010年6月27日日曜日

龍脈

 
 大地には,「気」の通り道である「龍脈」があります.
 というか,そう基本を置くことによって,「風水」が成り立ちます.いわゆる「風水師」の仕事は,この「龍脈」を見つけること.

 ここで,「龍脈」の存在を疑ってはいけません.
 なぜって,これが存在しないとなれば,「風水説」も存在できないからです((^^;).

 三浦國雄「風水講義」では,次のようなアナロジーが紹介されています.

大宇宙(宇宙)     小宇宙(人体)
(龍穴─龍脈)┬風─気┬(経絡─経穴)
       │   │
       └水─血┘
               三浦國雄「風水講義」(文春新書)

 設定としてはいいのですが,じゃあ「龍脈」はどこにあるのかというと,とたんに怪しくなります.上記「風水講義」では,基本になる「三大幹龍」というのが何度も出てきますが,その「三大幹龍」というのはなんなのかということは,さっぱりわからない書き方になっています.
 「中国三大幹龍総覧之図」というのまで,掲げてるんですけどね.
 「黄河」・「淮水」・「長江」がそうらしいとやら,いやそうではなくて,仮想の山脈であるとか….

 たぶん,この「中国三大幹龍総覧之図」というのは,単に大きな川を「龍」と見立てただけで,風水論とはまったく関係がないのじゃあないかという気がしますね.

 面白いのは,朝鮮半島は半島ではなく,島として描かれてること.
 なぜ面白いかというと,朝鮮の風水では,龍脈の大元である菎崙山から続いた龍脈が白頭山を経由して朝鮮半島に流れ込むとして,その基本を置いてるのに,大元の中国では朝鮮半島と龍脈は(なんであれ)断絶というか,無視されていることです.

 ま,早い話が,「風水説(論)」は,どこを開いても,矛盾だらけ,ということです.
 この風水が持つ「矛盾」は,欧米人には「迷信」としてしか映らず,デ・ホロートの「中国の風水思想(牧尾良海,1986和訳:原著は「中国宗教制度」の一部;風水解釈のねじれ現象の元となった「迷著?」)」では,風水思想のみならず,中国文化や中国人そのものをこき下ろした反=支那本になってます.
 読めば愕然とするであろうことを請け合いますが,時代背景を考えると,よくわかりますね.この本は,当時のシノロジーの代表的な著作だったのでしょう.この本を読んだ欧米人は「支那文化など踏みつぶしてもかまわない」と思ったでしょうし,実際に,欧米による支那植民地化・侵略の正当化に役立ったろうと思います.
 悲しいかな,日本の風水研究では,これがバイブルなんだって…(-_-;.
(いずれ,「中国の風水思想(牧尾良海訳)」についても,レヴューするつもりです)
(なお,当時は「中国」という国は存在しませんでしたので,訳本の表題は不適切です.当時の日本では,「清」という“国名”で呼んでいましたが,清は王朝の名前です.国の形としては,満洲族が漢族を支配していたという異民族支配ともとれる状態でした.このためか,現代中国では「満洲国」の存在を否定しています.歴史は,まだ,このあたりを整理していないのですね.)

 さて,話を戻しますと,「風水は環境論」です.
 だから,環境の違うところでは,「風水」が違い,「風水論」も異なります.中国には中国の風水があり,朝鮮半島には朝鮮半島の風水がある.もちろん,日本にも独自の風水があります.
 もっといえば,中国南部には,中国南部の風水があり,黄土地帯には黄土地帯の風水がある.砂漠地帯には砂漠地帯の….
 自明の理ですね.それを何でもかんでも,欧米自然科学流に統一しようとするから,ただの迷信にしか見えなくなる….
 

風水土

 
 このブログの始め方を間違えていたような気がします.
 風水に対する「スタンス」のことです.

 仕切り直し.

 風水の定義に関する,良い文献を見つけました.
 それは,
 目崎茂和「風水・風土・水土」(7-29頁,木崎甲子郎・目崎茂和編「琉球の風水土」築地書館)
 です.

  


 風水はなんのために存在したか.
 それは,人間が「住」を求める時に,どのような場所が,安全で快適であるか.それを判定するためでした(言い過ぎ.「だと思います」程度かな).
 風水は,「地理学」であるというようないい方もされますが,そんなちっぽけな学問一分野に納めるのは無理があります(ここでいう「地理学」は現代地理学のこと.風水の別名とされる(原初)「地理学」は,たぶんこれを目的としていた).

 目崎氏によれば,「風水」は,本来は「風水土」であり,これは,地学(地球科学)でいうところの,「気圏」・「水圏」・「岩石圏」に当たるものだそうです.
 日本のように,「水」に恵まれた地域では,「水」は,それこそ「空気」のようなもので,存在が意識できない.だから,日本では「水」が略されて「風土」という.
 沖縄のように,「水」が貴重な地域で,かつ,毎年のように「台風」におそわれ,「気」に気をつけなければならない地域では「土」が略されて「風水」がのこる.これは,沖縄で生活しているから,気付いたことでしょうね.

 さて,話を戻すと,「気圏」・「水圏」・「岩石圏」は我々を取り巻く「環境」の全てです.イコール「地球」ではないところに注意.「三圏分立」というような発想が生まれたころは,非常に重要なことが,一つ忘れられていましたからね.それは,われわれが大きく絡んでいる「生物圏」です.
 三つの圏で「地球」と考えるか,四つの圏で「地球」と考えるか,これはわずかな違いですが,非常に大きな違いですね.


 詰まるところ,風水は環境論なのです.「風・水・土」だけではなく,「生」も含めた.
 地球上には,「生命」が数限りなく満ちあふれているために,まるで「空気」のように忘れられているのでしょう.「生態系」ということでは,最近なにかと話題になりますが,なにか,方向を間違えているような気がする.

 さて,たぶん,あと一つ,なにか足りないような気がしますが,その一つは,(もしあれば)議論を進めてゆくうちに,見つかるでしょう.