風水について考えるブログです.

現代の風水は,非常に複雑な容貌を持っています.
もちろん,古代風水も単純ではありませんが,それなりに筋が通っているように思えます.
中華圏で発生した風水は, 風水であるだけに周囲の地理的環境の影響を受け,変化したようです.
さらに,世俗的な欲求から,多様な要素が付け加わっているようです.

これらを整理してみようという試みです.
 

2010年7月16日金曜日

鬼門

 
 北東方向を「鬼門」とよぶことは,日本人ならだれでもよく知っています.
 しかし,“文献派”の教授たちが,日本でいう「鬼門」には,裏付けがないことを明らかにしてから,“ちまちま派”の風水先生でも,比較的まともな風水本には,そのことを明記するようになりました.
 でも,不勉強な風水先生は,いまだに「北東方向は鬼門」であると,(例によって)なんの根拠・証拠も示さずに断言しています.


中国の鬼門
 「鬼門」という言葉そのものは,中華圏から輸入された言葉なんだそうです(原典も,内容もあいまいなので,こういう語尾になっちまいます).
 現地では「鬼」は死者やその魂をさす言葉であって,日本の「鬼」とは意味がちがいます.また,「鬼門」の意味も,日本でいわれていることとはちがうようです.たんに,ある場所(想像上の場所)への出入り口という意味らしい.北東の方角が悪い方角という意識もないようです.
 ちなみに,日本の風水先生のいう「裏鬼門」は,中華圏では「人門」というそうです.


日本の鬼門
 日本で,鬼門がよくない方向という意味を持つようになったのは,いつのころからなのか,それもよくわからないようですが,よくわからないほど古いということでしょうか.
 しかし,こういう「方角」に「いい・わるい」があると,ものの本に登場するようになったのは,安倍晴明が書いたといわれる「簠簋内伝」だといわれています.
 「安倍晴明占術大全」「簠簋内伝金烏玉兎集」(藤巻一保,訳解説)には,ひじょうにおもしろい記述がたくさんあります.たぶん,日本の迷信といわれるものの,ほとんど全てはここから始まっているのでしょう.

   


 さて,こういう本が成立したころの日本(日本とよんでいいのかどうか判断できないですけど)は,天皇・平安貴族らの支配下にあったのは,西日本だけであって,東北日本はいわゆる“まつろわぬ民”=蝦夷(えみし)とよばれる部族がたくさんいました.
 かれら(いわゆる縄文人の末裔ですね)はどんどん,北の方に追い詰められて,のちに蝦夷(えぞ)=アイヌの成立をみることになるのですが,このころは,大和政権の安定をおびやかす存在だったらしいです.征夷大将軍という役職があるでしょう.
 そういう意味では,北東の方角には,文化の異なる=得体の知れない,勇猛果敢な部族がいるわけですから,「鬼門」のイメージと結びついたかもしれないわけです.

 また,日本史上,このあたりの時代ほど魑魅魍魎が活躍した時代もありません.実際にいたかどうかはともかくとして,おおくの人がその存在を信じていたわけです.
 晴明の「簠簋内伝」の成立は,そういう時代を背景としているわけです.


現代の鬼門
 さて,鬼門は全くの迷信でしょうか?
 そういってしまうのは,たやすいですが,そうとばかりはいえないもこともあるようです.たとえば,鬼門の方角に玄関や,台所,浴室をつくってはいけないといいます.
 知人が,家を新築する時に,鬼門を気にしていたら,建築家はそれは迷信だから気にすることはないといったそうです.それを信じて,玄関を北よりはじゃっかん東の方向につくりました.
 その年の冬のことです.
 ある朝,玄関の戸が開きません.どうしたことでしょう.

 北海道では,冬には北西からの強烈な季節風が吹きます.吹きだまりが雪を堆積し,ドアを押さえ込んだんですね.
 さらにわるいことには,車庫も,だいたいそのそばで同じ方向をむいてますから,状況はおなじです.
 かれは,毎朝,窓からでて,玄関のドアを掘り起こし,車庫前の雪かきをして出勤しているといいます.

 北海道の冬はマイナス20〜30℃にもなります.
 北側の暖房のない部屋,浴室,台所,トイレなどは,いつも寒いし,窓や壁が結露をおこします.十分な対策なしに,こういうものを置くと,あとで苦労します.
 温度差の激しい,浴室,トイレは,脳梗塞の要注意スポットでもあります.

 冗談ではなく,北側の水回り,玄関は「鬼門」なんです.
 厳密に北東ではなく,北から東方向ですけどね.



 「迷信だ」,「科学的でない」といって,否定するのはたやすいですが,なんの根拠もなく,そういってしまうのは,逆に「科学という迷信」をつくり出すことにつながります.長い間言いつたえられていることには,それなりにリーズナブルなことがあると思った方がいいのでしょう.
 

2010年7月15日木曜日

風水害

 
 ここんところ,本州南部での水害のニュースが続いています.
 TVでは,気象予報士が,梅雨末期に普通に見られる豪雨だと,ピント外れのことをいってます.

 災害は,豪雨そのものがおこしているものではありません.
 かわいそうですが,明らかに風水の悪いところに,災害が起きています.


 急崖の下.
 普段はたいした水量もない沢の出口.
 一見近代的な,造成地.

 脈動する気に対応できない余裕のない河川敷.
 大きな川が,大きく曲がるところの外側の地域.

 一見すると風水のよい平地でも…,
 水のしみこまないアスファルト敷きにできた低地.
 立体交差にできた低地.
 うまい考えのつもりの地下室.
 溝のような河川.
 川底より低い住宅街.

 明らかに悪い風水.

 

中国の風水

 
 相変わらず,「中国の風水」についての,よい文献はみつかりませんが,おもしろい本をみつけました.
 それは,山本 斌(1975)「中国の民間伝承」(太平出版)です.

    


 出版は1975(昭和五十)年ですが,じっさいに調査されたのは,1939〜42年ごろのこと.著者は東亜研究所と満鉄調査部のおこなっていた「中国農村慣行調査」にくわわり,現地の農民から直接採取したものだそうです.

 ここには,風水をメインにおいた章はありませんが,収集した民間伝承の背景には,当時の民間人の「風水思想」がいたるところにあらわれています.

 おもしろいことに,当時の普通の中国人の「風水」にと,いまの日本の風水先生や大学で民俗学かなんかやってる(いわゆる“文献派”)の教授たちがいうような「風水」とは,ひどいギャップがあります.

 それは「南蛮子伝説」のところにありますが,村にいる風水先生は普通の農民と変わったところはなく,「いわば旧式の知識人,長い人生経験を通じての博学な合理主義者である.したがって,老人のほうが信用される度合いが高い.多くは家伝の周易の書を持ち,古老から口伝によって受けた漢学の素養を身につけている.しかし,道観(道教の廟)などで修行をつんだりしたような人はいない.」なのだそうです.

 村の風水先生は「道教の修行」などしていないということです.
 日本の風水先生や大学教授たちは,どちらも風水と道教は密接な関係があるといっていますが,どうやらそうではないらしい.
 「南蛮子伝説」をじっさいによんでみても,一つの「風水ルール」はありそうですが,道教に密接な関係ある話など,まったくでてこないですね.

 これはいったいどうしたことでしょう.
 もちろん,「「県城は,村よりももっと規模の大きい風水の上に,もっと学のある偉い風水先生の判断によって構築されたに違いない」と農民はいう.」ということも記されていますから,こちらは道教の素養などあるかもしれないですね.
 ようするに,権力下の公的な風水先生と,それとは別の,村の,民間の風水先生がいるということになりますでしょうか.
 そして,民衆の身近なところにいる風水先生は,道教とかの権威づけは必要なく,実用的なのだということを意味しているようです.


 日本に蔓延している“風水”は,“ちまちま派(インテリア風水とか)”も“文献派(大学教授連)”も,道教とかの権威のもとで論理を展開しているようですから,実際の中国の民衆が信じていた「風水」とはちがうものである可能性が非常に高いということになりますね.

 してみると,(困ったことに,)日本では,“ちまちま派”も“文献派”も,おなじ穴のムジナということになるのでしょうか.
 そういえば,“ちまちま派”は“文献派”のいうことを,明らかに「権威づけ」として,使ってますね.
 

2010年7月7日水曜日

形煞

 
 「形煞」という言葉があります.
 普通の中国語に,こういう言葉があるのかどうかわかりませんが,少なくとも,私のもっている「基礎中国語辞典」には(熟語としては)載っていません.
 ためしにググってみると,ほとんどが,日本の「風水HP」です.まれにみられる漢文も「風水」関連だけのようです.

 しょうがないので,分解して,意味を調べることに.

「形[xíng]」:形.形態.形状.
「煞[shā, shà]」:凶悪な神.邪神.悪霊.

 “形が悪い”というような意味になるのでしょうか.

 さて,では,具体的には,どんなのが「形煞」となるのかというと,例によって「具体的」になると,「風水本」はさっぱりわからなくなるのが普通です.
 だいたいが,イメージの産物で,なんでこれが「形煞」と判断されるのかよくわからないのが多いですね.

 たぶん,風水先生に相談するような人は,なにか悩み事をもっているのが普通ですから,風水先生は「なにか悪いところ」を探さなければならない.だいたいが強引に,なんでもないところに「なにか悪いところ」を見つけ出し,相談者は悩み事のせいで,風水先生が言うところの「形煞」が原因だと考えれば,対処しやすい…と,いうところでしょうか.

 ただし,その中のいくつかは,直感的にも,論理的にも,科学的にも,あまり良くない形というのはあるようです.
 その中からいくつかを.


●丁字路口
 「丁字路口」という言葉があります.風水では「形煞」とされています.

 「路口[lùkǒu]」とは「交差点」のことで,「十字路」=「十字路口」で,「T字路」=「丁字路口」ということですね.「丁字路口」自体に,もともと,とくに不吉な意味があるわけではありません.

 ところが,T字路の突き当たり部分,ここに,家を建てるのは「不吉」ということらしいです.説明としては,”T”の字の下からきた悪い気が,もろに家に当たり,悪いことをするということらしいです.

 第一に,どうして「悪い気」なのか?
 「良い気」だったら,「いいんじゃあない?」

 しかし,「良い気」も「悪い気」も判断がなくて,「この場所は良くない」と判断されるようです.
 それは,前にも言ったように,「気」には「良い」も「悪い」もないからにほかなりませんね.「良い」・「悪い」は人間の側の勝手な都合なんです.「気」は流れているだけですから,普段はなんでもなくても,脈動する気の流れが「強く」なった時,それに耐えられないような「人間」・「家」・「邑」・「国家」が倒れるだけです.
 ただ,丁字路口が悪いわけではない.

 第二に,T字路の突き当たりだと,「気」はどんどん流れ込んでくるのでしょうか.
 T字路の下棒の部分が短ければ,十分に「気を集める」こと,「気が集まる」ことができないですから,「丁字路口だから悪い」ということにはなりませんね.したがって,T字路の下棒の部分が短かければ,この議論は意味をなさないということです.

 第三には,今までの話と若干矛盾しますが,T字路はやはり危ないのです((^^;).
 実際にこういうT字路では,交通事故が起きやすい.突き抜けている方の道路を通っている車は,横から来る車なんかほとんど気にしません.
 一方で,突き当たりの反対側から来る車は,気をつけていてくれればいいのですが(「気をつける」やはりね(^^;),「気を抜く((^^;)」と,丁字路口に不用意に侵入することとなり,運が悪ければ,「出会い頭の事故」となります.
 知り合いが,この手の事故にあい,一年ほど入院通院でふいにしましたね.原因は,T字路の突き当たりに突っ込んできた車が,一時停止をしなかったせいです.


 さて,一般の家ではどうでしょう.
 普通は,あまり気にしなくていいかと思いますが,日本でも南部になると,やはり,東アジア地域特有の「台風」が時々おそってきます.
 普段はあまり気にならないでしょうけど,こういう場合は,T字路の突き当たりにある家は,「風の通り道」を塞ぐ格好になっていますから,強風の被害を受けやすい(もちろん,T字の下に伸びた道が短ければ,この場合,それほど問題にはなりませんね)
 沖縄あたりでは,T字路の突き当たりには「石敢當」なるものが普通に置かれているそうですが,毎年,台風に襲われる沖縄としては,こういうものを置いて守護としたいという気持ちは,よくわかりますね.

 ところで,商店などの場合には,T字路の突き当たりにある店は,この路を通る人や車からは,はるか遠くからみることができるので,繁盛しそうですね.
 どうですか,一概に「悪い」とはいえないでしょう.
 ただし,オートマ世代の人たちは,アクセルとブレーキを踏み間違えることが良くあるようですから,「石敢當」に相当するものを設置することと,道路と店舗の間には十分な間隔を置くことが必要ですね.


●路弓(街道反弓)

 中国のHPでは「路弓」という用語はなかなか見つかりません.
 「街道反弓」というのは見つかりますが,やはり風水HPでのこと.
 つまるところ,「風水用語」と考えて良いでしょう.

 さて,「街道反弓」とは?
 文字通りだと,「街の路がひっくり返った「弓」になっている」ということです.風水用語としては,湾曲した道路の外側に面して入り口のある建物=よろしくない,ということまで含んでいるようです.

 さて,では,湾曲の内側ではどうなんでしょうね.

 中国の故事にこんなのがあります(詳しい話,および出典は忘れました:中国の故事としては有名な話のようです).
 ある人が母親の墓を湾曲した川のすぐ傍の内側につくりました.風水上では川の傍は水気が多く良くない場所とされています.それで,その人の知り合いは,なんて無知なことをするのだと,罵りました.
 ところが時が過ぎると,川は湾曲部の外側に向かって移動し,母親の墓のある場所は乾いた良い土地になりました.

 この人は,メアンダー(蛇行)している川は,湾曲の外側に向かって移動してゆくことを知っていたのですね.風水の達人といえます.

 治水が,あまり良くおこなわれていない川は,水量が増えるたびに,激しく蛇行してゆきます.それは,湾曲部の外側は浸食域であり,内側は堆積域だからです.
 放っておくと,蛇行は進行し,内側の土地はどんどん広くなり,外側の土地は少なくなってゆきます.

 また,雪解け時,梅雨時あるいは豪雨が続く時期などには,急激な増水が起きると,たとえ堤防があったとしても,これを突き破って,川は湾曲部の外側に溢れてしまいます.

 古代風水師は,そういうことに気がついていたのでしょう.
 水にしろ,気にしろ,人にしろ,そういうものが流れる通路(龍脈)の湾曲部の外側,これは「風水が悪い」のです.
 くれぐれも,そういう土地には,お気をつけください.

 風水では,ほかにも,「彎弓直箭」,「路弓往内射」,「鎌刀煞」などと呼ばれるものがありますが,全て,これの応用です.
 彎曲する龍脈(エネルギーの流れ路)の外側は「危険!」ということです.

 普段は何事もなくても,脈動する「気の流れ」が強くなった時,我々には手の施しようがないことがある.これが,風水の教えです.

 

2010年7月4日日曜日

良い気,悪い気

 
 風水先生は,「良い気」の通り道か,「悪い気」の通り道かを判断するのも仕事といわれています.

 しかし,「「地形派」vs.「方位派」」ですこし触れたように,「善悪」はもっぱら人間の側の都合で,そんな区分はたぶん無い.

 気は,リズミカルに流れているだけです.弱くなったり強くなったり.
 「風」とおなじですね.
 「陽の気」と「陰の気」が交互に流れていると考えるのも,風水的かもしれませんね.ちょっと,「陰陽五行説」の影響が強くなってしまいますが.

 ほとんどの「人間」・「建物」・「邑」・「国家」にとって,少しの風は気持ちがよい.

 無風状態は,空気がよどんで,あまりよろしくないですね.

 しかし,希に,暴風になりますと,「風」には変わりがないのに,「風は悪い」と判断されてしまいます.が,それに耐えられる「人間」・「建物」・「邑」・「国家」にとっては,別に「悪く」もなんともないのです.
 したがって,「良い」・「悪い」は,大地に張り付いている弱い存在である「人間」の側の都合でしかない.ですね.

 ただ,「風は吹いている」だけなんです.
 

2010年7月1日木曜日

「原始風水」

●「北坐南向(ほくざなんこう?)」>「坐北向南」

 「北坐南向」という言葉があります.

 私の乏しい漢語の知識からいえば,このような言葉はあり得ない.「坐北向南」の間違いでしょうね.
 ためしに,「北坐南向」でGoogleすると出てくるのは日本語のHPばかり.逆に「坐北向南」でGoogleすると,今度は中国・台湾のHPがたくさん出てきますね.

 つまるところ,「北坐南向」なんて言葉が書いてある「風水本」や「風水HP」は怪しいということです.

 もうひとつ.
 風水は「陰陽五行説」を基本とするのが原則の筈ですが,これまでのところ,読んだ「陰陽五行説」の本には,「坐北向南」を「良」とする根拠はもちろん,「坐北向南」という言葉すら見つかりません.

 なんででしょう.

 一方で,「南向き緩斜面」は生活にも,農作業に用いるのにも良い土地だということは,別に風水を用いなくてもわかることです.もちろんこれは,北半球の温帯から亜寒帯での話,つまりいわゆる風水文化地帯でのですけどね.
 たぶんこういうのが,「原始風水」なのだと思います.


●「背山臨水」
 「坐北向南」と並んで,よく使われる言葉に「背山臨水」があります.
 山を背にして,水に臨めば,排水は良いので乾燥してますし,飲用水や農業用水にも不自由しません.生活にも,農作業などに用いるのにも,良い環境ですね.

 しかし,「南向き緩斜面」は良いですが,背後に山が迫っていて,急斜面があるのはいけません.
 理由は,この時期になるとよくわかりますね.
 普段はなんでもなくても,梅雨時あるいは豪雨が続く時期には,急斜面は崩壊の危険があります.
 斜面崩壊で被害にあった人たちの多くがこういいます.
 「ここに何十年も住んでいるが,こんなことは一度もなかった」

 以前は,被害が起きるとよく使われた言葉「百年に一度の豪雨」.最近は,あまり使われませんね.「百年に一度」があまりに頻繁に起きるからでしょうか.

 人類紀になってから,二百万年とも二百五十万年ともいわれますが(最近定義が変わったせい),そうすると百年に一度の災害は,二万回から二万五千回は起きていることになります.日本列島に,普通に人が住むようになってから約一万年が経っていますが,それからでも,百回は起きていることになります.
 これは,「滅多にないこと」ではなく,「頻繁に起きていること」ということになります.

 実際に,斜面崩壊の被害にあった場所でなくても,こりゃあ危険だなと思われるところはたくさんあります.昔は,住むところよりも農作地にするところの方が大事でしたから,仕様がなかったのでしょうけど,「人の命は地球より重い」となった現在でも,そういうところに住み続けている人は多いようです.
 さらに,大都市周辺では,住宅地が周辺に押しやられているために,ますます,そのような危険なところに住宅が建てられ,梅雨時,とくに梅雨の終わりの豪雨時には悲しいニュースが流れます.
 ニュースをみるたびに,なんでこんな危険なところに…と,思いますが,「危険だ」という警告はめったに受け入れられることがありません.
 地質学者や地形学者は警告していないのか,警告が受け入れられるシステムができていないのか,警告しても受け入れられないのか…,毎年,毎年,繰り返していますね.

 だったら,いっそのこと,「ここは風水が悪い」と宣告したくなりますね.

 「背山臨水」は山を背にすることですが,排水が良く乾燥した土地(しかも,「水」に不自由しない)ということであって,急斜面の下に住むことではありません.

 ところで,「背山臨水」は陰陽五行説で説明できるのかというと,これまた,微妙なところです.北の玄武には「水」が配当され,南の朱雀には「火」が配当されているからです.どう説明するのか,陰陽五行説および風水の専門家に解説を聞いてみたいところです.


●盆地地形
 前回,“せいきモデル”の図を示しましたが,風水の良いモデル的な地形は,まあ,あのような地形なわけです.
 なぜ,このような地形が良いのか,これも,陰陽五行説では説明できないかと思います(その気になったら,するかもしれないですけどね).

 これも,じつは原始風水だとおもいます.
 直感的に理解できる.
 たとえば,石狩平野のような広大な平坦地を思い浮かべてください.

 札幌農学校が目指したような近代西洋式農法なら,広いだけの土地の方が使いやすい.
 しかし,石狩平野は,春先や秋の終わりに,昔は,馬糞風と呼ばれた強烈な季節風が吹きます.原因は日本海から太平洋まで遮るもののない巨大な平野だからです.

 風水が発生したころの,人力,精々が牛力程度の農業では,広いだけの土地は,逆に使いにくい.それだけでなく,馬糞風のような季節風が吹くと,農作物の植え付けに影響があるし,長雨などで収穫が遅れると,今度は晩秋の北風に痛めつけられることになります.

 それならば,“せいきモデル”のような,盆地地形が季節風の影響が少なくてよろしい.上川盆地なんかに住んでいると,強風はめったに吹かないので,春先,秋口に札幌に遊びに行くと強い風にびっくりします.

 つまり,これも原始風水.良い土地選びの基本なわけです.


●原始風水
 原始風水は,陰陽五行説の影響は受けていないように思われます.
 風水の基本は「陰陽五行説」だといわれながら,陰陽五行説では説明できない,なおかつ直感的な「風水概念」があります.これは,原始風水が生き残っているものなのでしょう.
 したがって,風水の基本が「陰陽五行説」なのではなく,陰陽五行説が「原始風水」を取り込んだのだろうと思われます.

 日本にも,朝鮮半島にも,独自の風水があります.それは,地域によって環境が違うからです.
 したがって,中国にも独自の風水があるはずですが,中国風水は非常に見えにくい.それは,本場中国の風水は「陰陽五行説」で覆い隠されているからだと思います(残念ながら,中国の風水を解説した良い本が見あたらないので,「である」と言い切ることはできませんが).
 しかし,「陰陽五行説」も,辺境の日本あたりまでくると「メタ陰陽五行説」となって変化し,「陰陽道」となりますので,中国風水とはかなり異なったものになり,結果として「風水」も異なっていることからもわかります.

 はっきり言ってしまえば,「陰陽五行説は,中国風水のノイズ」なのでしょう.
 あるいは,土俗の原始風水が,権威付けに「陰陽五行説」を利用したため,各地の独自性が見えにくくなっているのかもしれません.

 

2010年6月28日月曜日

「地形派」vs.「方位派」

 
 前回,「環境の違うところでは「風水」が違い,「風水論」も異なります」と,書きました.少し補足します.

 いわゆる“風水本”の解説でよくあるのが,「地形派」vs.「方位派」というわけ方.こういうわけ方は,「陽=善」,「陰=悪」みたいな受け取りかたとおなじで,そもそも,東洋的でない.「善」と「悪」に分けるのは人間の都合,それも,かなり幼稚な都合ですね.「アンパンマン=正義」,「ばいきんまん=悪」みたいな.

 図は,村山知順「朝鮮の風水」に示された有名な図で,いわゆる「せいきモデル」(漢字で示さないのは,検索サイトを通じて“妙な”サイトとリンクされるのを防ぐためです)というものです.
 風水の解説本には,必ずといっていいほど載っています.




 まず,こういう地形が実際に存在するか,どうか,かなり疑問です.
 モデルだから,まったく同じものはないであろうことはわかりますが,Google earthなんてものが,存在するにもかかわらず,これと類似した,これぞ風水地形という地形が示されたことないというのも“妙な”話ですよね.
 これは,「桃源郷伝説」に関係してるんだと思います.沢の選択を一つ間違えても,そこにはたどり着けない,という.
 これについては,また別の機会に,話を続けましょう.

 それはさておき,こういう地形が実際に存在するかどうかは別として,あるという仮定でいきます.
 子供にでもわかることは,こういう地形は,山間部にしかありえないということです.
 山間部だと,あり得るのかという話は,また別の機会に.
 地質によっては,複雑な沢地形をつくり出すことも,考えられますので,希にはあるかもしれない.

 さて,中国でも,南部の山間部,モンスーン地域では,こういう風水もあり得るかもしれません.
 しかし,中国中央部の黄土地帯=大平原ではどうでしょう.また,北部の岩石砂漠ではどうでしょう.このような,風水地形論は意味がないですね.
 頼るものは,方位しかありません.したがって,方位に頼るしかない.

 ただ,目印もろくにないような,大平原あるいは砂漠で,「風水」が必要かどうかは疑問ですが.

 でも,風水にとって,「地形が重要か,方位が重要か」という議論は,その地域次第であって,あまり重要な意味はないということはわかりますよね.

 モデル図について,注意しておかなければならないことがもうひとつ.あれは,引用元が「朝鮮の風水」であって,“中国の風水”ではないこと.
 したがって,これをもって,風水全般を説明して良いのだろうか,という疑問が先ずあるはずですね.
 

2010年6月27日日曜日

龍脈

 
 大地には,「気」の通り道である「龍脈」があります.
 というか,そう基本を置くことによって,「風水」が成り立ちます.いわゆる「風水師」の仕事は,この「龍脈」を見つけること.

 ここで,「龍脈」の存在を疑ってはいけません.
 なぜって,これが存在しないとなれば,「風水説」も存在できないからです((^^;).

 三浦國雄「風水講義」では,次のようなアナロジーが紹介されています.

大宇宙(宇宙)     小宇宙(人体)
(龍穴─龍脈)┬風─気┬(経絡─経穴)
       │   │
       └水─血┘
               三浦國雄「風水講義」(文春新書)

 設定としてはいいのですが,じゃあ「龍脈」はどこにあるのかというと,とたんに怪しくなります.上記「風水講義」では,基本になる「三大幹龍」というのが何度も出てきますが,その「三大幹龍」というのはなんなのかということは,さっぱりわからない書き方になっています.
 「中国三大幹龍総覧之図」というのまで,掲げてるんですけどね.
 「黄河」・「淮水」・「長江」がそうらしいとやら,いやそうではなくて,仮想の山脈であるとか….

 たぶん,この「中国三大幹龍総覧之図」というのは,単に大きな川を「龍」と見立てただけで,風水論とはまったく関係がないのじゃあないかという気がしますね.

 面白いのは,朝鮮半島は半島ではなく,島として描かれてること.
 なぜ面白いかというと,朝鮮の風水では,龍脈の大元である菎崙山から続いた龍脈が白頭山を経由して朝鮮半島に流れ込むとして,その基本を置いてるのに,大元の中国では朝鮮半島と龍脈は(なんであれ)断絶というか,無視されていることです.

 ま,早い話が,「風水説(論)」は,どこを開いても,矛盾だらけ,ということです.
 この風水が持つ「矛盾」は,欧米人には「迷信」としてしか映らず,デ・ホロートの「中国の風水思想(牧尾良海,1986和訳:原著は「中国宗教制度」の一部;風水解釈のねじれ現象の元となった「迷著?」)」では,風水思想のみならず,中国文化や中国人そのものをこき下ろした反=支那本になってます.
 読めば愕然とするであろうことを請け合いますが,時代背景を考えると,よくわかりますね.この本は,当時のシノロジーの代表的な著作だったのでしょう.この本を読んだ欧米人は「支那文化など踏みつぶしてもかまわない」と思ったでしょうし,実際に,欧米による支那植民地化・侵略の正当化に役立ったろうと思います.
 悲しいかな,日本の風水研究では,これがバイブルなんだって…(-_-;.
(いずれ,「中国の風水思想(牧尾良海訳)」についても,レヴューするつもりです)
(なお,当時は「中国」という国は存在しませんでしたので,訳本の表題は不適切です.当時の日本では,「清」という“国名”で呼んでいましたが,清は王朝の名前です.国の形としては,満洲族が漢族を支配していたという異民族支配ともとれる状態でした.このためか,現代中国では「満洲国」の存在を否定しています.歴史は,まだ,このあたりを整理していないのですね.)

 さて,話を戻しますと,「風水は環境論」です.
 だから,環境の違うところでは,「風水」が違い,「風水論」も異なります.中国には中国の風水があり,朝鮮半島には朝鮮半島の風水がある.もちろん,日本にも独自の風水があります.
 もっといえば,中国南部には,中国南部の風水があり,黄土地帯には黄土地帯の風水がある.砂漠地帯には砂漠地帯の….
 自明の理ですね.それを何でもかんでも,欧米自然科学流に統一しようとするから,ただの迷信にしか見えなくなる….
 

風水土

 
 このブログの始め方を間違えていたような気がします.
 風水に対する「スタンス」のことです.

 仕切り直し.

 風水の定義に関する,良い文献を見つけました.
 それは,
 目崎茂和「風水・風土・水土」(7-29頁,木崎甲子郎・目崎茂和編「琉球の風水土」築地書館)
 です.

  


 風水はなんのために存在したか.
 それは,人間が「住」を求める時に,どのような場所が,安全で快適であるか.それを判定するためでした(言い過ぎ.「だと思います」程度かな).
 風水は,「地理学」であるというようないい方もされますが,そんなちっぽけな学問一分野に納めるのは無理があります(ここでいう「地理学」は現代地理学のこと.風水の別名とされる(原初)「地理学」は,たぶんこれを目的としていた).

 目崎氏によれば,「風水」は,本来は「風水土」であり,これは,地学(地球科学)でいうところの,「気圏」・「水圏」・「岩石圏」に当たるものだそうです.
 日本のように,「水」に恵まれた地域では,「水」は,それこそ「空気」のようなもので,存在が意識できない.だから,日本では「水」が略されて「風土」という.
 沖縄のように,「水」が貴重な地域で,かつ,毎年のように「台風」におそわれ,「気」に気をつけなければならない地域では「土」が略されて「風水」がのこる.これは,沖縄で生活しているから,気付いたことでしょうね.

 さて,話を戻すと,「気圏」・「水圏」・「岩石圏」は我々を取り巻く「環境」の全てです.イコール「地球」ではないところに注意.「三圏分立」というような発想が生まれたころは,非常に重要なことが,一つ忘れられていましたからね.それは,われわれが大きく絡んでいる「生物圏」です.
 三つの圏で「地球」と考えるか,四つの圏で「地球」と考えるか,これはわずかな違いですが,非常に大きな違いですね.


 詰まるところ,風水は環境論なのです.「風・水・土」だけではなく,「生」も含めた.
 地球上には,「生命」が数限りなく満ちあふれているために,まるで「空気」のように忘れられているのでしょう.「生態系」ということでは,最近なにかと話題になりますが,なにか,方向を間違えているような気がする.

 さて,たぶん,あと一つ,なにか足りないような気がしますが,その一つは,(もしあれば)議論を進めてゆくうちに,見つかるでしょう.
 

2010年5月25日火曜日

風水と自然科学

 
 「風水」は,自然現象の記録とその体系化ではありませんので,「自然科学」の範疇に,入ることはありません.

 風水には,「学」と「術」があるようだと前に書きましたけど,上記のような定義法でいけば,「風水学」は古典を論拠として必要とするのに対し,「風水術」はそういうものは必要ありません.なにを根拠にするのかというと「連想」というのが「当たり」のようです.

 一応(この「一応」というのが重要な点です),「学」も「術」も「自然観察に基づく」と主張しますが,重視はしていないようです.

 「学」は「古典に基づ」きますので,論理の展開には自ずから規制がありますが,「術」は「連想に基づ」きますので,論理展開には,かなりの自由度があります.論理に明白なギャップがあっても,あまり気にしません.
 たとえば,「黄色や金色のグッズは金運を高める」などという主張は,なんの根拠も示されるわけではなく,単に色による「連想」としか考えられませんね.そもそも,古典風水には「金運UP」などという概念はどこにもない.

 連想は,そもそも,個人々々の「脳」の中にしかありません.
 このため,「風水術」は「A氏の風水術」,「B氏の風水術」,…,といった様相を示し,互いに矛盾することもしばしばです.
 現代風水術は,「風水術を用いる」というよりも,特定の「風水先生を信じる」ことという様相を示しています.

 なぜ,こうなってしまったのかは,おいおい,考察してみることにしましょう.
 

2010年5月16日日曜日

 
 「学」と「術」で,「風水の基本…不可能」と書いてしまいました.
 しかし,「底流」というか「根本を流れる思想」というのはあります.それは,「気の流れ」です.

 「気」とはなにか,と,いうのを説明するもの難しいですが,これは「学」の本でも,「術」の本でも,一通りの説明がありますので,参照してみてください.ただし,理解できるかどうかは,保証の限りではありません.

 私なりのいい方をすれば,「それは,あらゆるものを動かしているエネルギー」と,でもいうものでしょうか.「人」の場合が典型で,「人の生命は気が凝集したもの.気が凝集すれば生き,拡散すれば死ぬ.」(荘子)というわけですね.

 これは,大地にもアナロジーとして用いられ,大地にも生気が流れていると考えます.

 このあたりまでは,東洋人であれば,何となく理解している世界ですね.
 しかし,これが「術」の世界に入ると,多少混乱を生じます.
 一般的には,大地の生気が流れるルート「龍脈」には,生気が濃密にわだかまる場所「龍穴」があり,この上に,墓・家・町・国をつくると,繁栄するということになっています.

 しかし,いろいろ調べると,「龍脈」に,そのようなものをつくるのはとんでもないという考えもあります.
 なぜかというと,「龍脈」は強いエネルギーの流れですから,その上につくった墓では,死者は安らぐことはできないですし,家や町をつくれば,その強いエネルギーに耐えられるような強い精神・肉体を持っていない者には「災い」でしかないといいます.

 どちらが正しい?

 たぶん,どちらも正しいのでしょう.
 適当な水量を持った川は大地に潤いを与え,豊かな農作物を供給してくれます.しかし,天候の変化により急激に水量を増した河川は,災いでしかありません.
 単に「龍脈」を読み,「龍穴」を探り当てただけでは,幸運が訪れるとは言い切れないのでしょう.
 

2010年5月15日土曜日

「学」と「術」

 
 「風水の基本は…」という話から始められればいいのですが,それは不可能なようで.
 あまりに雑多なものが付け加わっていて,なにが基本なのかがわからない.
 たぶん,広大な中華圏のさまざまな土地の土俗宗教,言い伝え,などが渾然一体となって構成されているのが風水なんでしょうけどね.

 三浦國雄「風水講義」(文藝春秋)には,「ごく単純化して言えば,前者は「学」で後者は「術」というまったく質の異なるもの」があるとしています.
 つまり,風水には「学」と「術」があるということでしょうか.

   


 「学」の方は古代の中華圏(台湾や朝鮮を含む)において,生活技術として使われた風水を,民俗学的な立場で明らかにしていこうというもの.これは,「なぜ中華圏には『現代自然科学』が発生しなかったか」という科学史上の問題でもあります.
 もう一方の「術」は,(現代も含めた)社会におけるさまざまな問題を解決するための,いわば応用ともいうべき風水です.あらゆるところに手を出そうとしますから,あらゆるものが含まれてきます.風水が複雑なのは,広大な中華圏における多様な地理環境のためだけではなく,庶民の生活に密着した雑多な問題を解決しようという試みのせいでもあるわけです.

 出典は忘れましたが,「学」の方からみると,「術」は(とくに現代風水は)「ちまちま風水」といういい方もあるようです.
 風水を単純化して整理しようとする「学」に対して,日々,雑多なものを付け加えようとする「術」に対する,「イライラ感」が現れているような言葉ですね.

 私の感覚をいえば,「学と術」は,「表と裏」あるいは「陽と陰」のような関係にあるものではなく,その境目はごく曖昧な…もののような気がします.
 思わず,「陽と陰」といってしまいましたが,これが正しいかもしれない.もちろん,「太極図」における「陰と陽」の解釈ですね.
 二つ分かれているように見えますが,陰の中に陽があり,陽の中に陰がある.二つは絡まり,これを永遠に繰り返す….
 

2010年5月14日金曜日

はじめに

 「風水」について考えてみようと思う.
 現代の風水は,非常に複雑な容貌を持っている.もちろん,古代風水も単純ではないが,それなりに筋が通っているように見える.中華圏で発生した風水は,風水であるだけに周囲の地理的環境の影響を受け変化したように見える.
 さらに,世俗的な欲求から,多様な要素が付け加わっている.

 日本では,沖縄の風水が,より原形をとどめているようであるが,日本本土の現代風水は,土俗宗教を取り込み,また風水先生の個人的要求によって,ほぼ原形をとどめていない.
 むしろ,そのメタ風水,パラ風水が幅をきかせているために,本来の風水の研究は最悪の状況を迎えたようだ.

 しかし,最近では,メタ風水,パラ風水の方は,以前より勢力を失っているので,私のような初心者が口を出したところで,風水先生の天罰が当たるようなこともなくなっただろうと思う.
 しかし,ものがものなので,危なくなったら,ここはすぐに閉鎖するつもりでいる.